• 人間の変革の祝祭ー断食明けの祝祭に寄せて(1)

本日は、イスラム暦シャッヴァール月1日、即ちイスラム教徒の断食明けを祝うフェトルの祝祭日に当たります。フェトルの祝祭は、イスラムの大きな祝祭の1つであり、イスラム教徒は断食と神への崇拝行為の月であるラマザーン月の終了に感謝し、飲食を解禁することでこの重要な日を祝います。

断食明けのフェトルの祝祭は、自己形成と神への礼拝の月であるラマザーン月への告別を意味します。この日に断食をすることは禁じられ、人々は自分を律し禁欲さを身につけるという1ヶ月間の修練の後、大集団の中で盛大に断食明けの礼拝を行います。今夜は、断食明けのフェトルの祝祭についてお話することにいたしましょう。

 

東の空がやっと明るくなり始めています。イラン国内は情熱と躍動感にあふれ、至るところで礼拝が行われています。イラン北東部の聖地マシュハドもこうした集まりの場の1つです。大勢の人々が断食明けの礼拝に参加するため、シーア派8代目イマーム・レザーの聖廟に向かう道を我先にと急いでいます。それから程なくして、聖廟は大勢の人々で溢れ返りました。人々は、すがすがしい心持で、フェトリーエと呼ばれる断食明けの寄付金を納めてから、大海原に溶け込む雫のように、整列した礼拝者の集団に加わります。四方八方から、神は偉大なりと言うアラビア語の朗誦がこれまで以上に大きく聞こえてきます。

断食明けを祝う礼拝のために集まった巡礼者には、様々な年齢層の男女が見られます。ある若者は、車椅子を押して、礼拝者の整列場所に年老いた父親を連れて行く道すがら、次のように語ります。

「まさに、私の父の宿願は、イマーム・レザーの聖廟での断食明けの礼拝に参加することでした」

 

イマーム・レザーの聖廟内の境内の1つは、女性の礼拝者のために絨毯が敷かれています。目の前に開けた空間には、祝祭のムードが漂い、サッガーハーネと呼ばれる水飲み場までもが、色とりどりの美しい花々で装飾されています。礼拝者の行列の先頭のほうに、30歳くらいと思われる若い女性が座っており、両手を空に向かって高く差し上げています。ローザと名乗るその女性は、次のように語っています。

「私は、イスラムに入信して2年になります。ですが、この日、私は初めて自分がシーア派教徒であることを実感しています。聖廟にやって来たとき、花束を持って聖廟の方向に歩いていく人々を大勢見かけました。その光景は非常に美しく、私も大勢の人々と共に聖廟の方に歩いていきました。そして、もはや自分が1人の人間ではなく、1つの共同体なのだということを実感しました」

こうした感覚は、非常に素晴らしいものです。心を1つにしたこの大集団は、イマーム・レザーが残した次の言葉を思い起こさせるものです。

“神が断食明けのフェトルの日を祝祭日に定めたのは、イスラム教徒がその日に集まり、神が降り注ぐ恩恵を賞賛し、神に敬礼するためである。このため、その日は祝祭日であるとともに、大勢で集まり、施しをし、願掛けや神への賞賛を行う日でもある”

 

祝祭はアラビア語でイードと呼ばれ、これは元々は戻ることや回帰を意味します。このことから、この日は人々の問題が解消され、当初の楽な状態や勝利に戻ることにちなんで祝祭が行われる日とされています。イスラムにおける祝祭日は、1ヶ月間のラマザーン月の断食に服し、或いはメッカ巡礼を行うことで、人間の精神や魂に当初の本質的な清らかさが戻り、天性の気質に反する穢れが消え去ることを祝うため、祝祭と呼ばれているのです。

断食明けの祝祭は、1年のうちで最大の祝祭の1つとされています。複数の伝承によれば、この日には神の慈しみの扉が開かれ、人々はラマザーン期間中に活用した精神的なエネルギーの量に従って、この祝祭日やその後も清らかな日々を送り、罪を回避できるとされています。これについて、コーラン第87章、アル・アアラー章「至高者」、第14節と15節では、次のように述べられています。

“ 誠に、清らかさを求め、自らを清めた者は必ず救われる。また、 自らの創造主の御名を唱えてから礼拝を行う”

コーランのこの節は、信仰心を持つ人々が救われること、そしてその要因について触れるとともに、救済と勝利の要因として、自己浄化、神の名を唱えること、そして礼拝を行うことの3つを挙げています。自己浄化とは何かということについて、一部の人々はこれを、多神教信仰を精神から払拭することだと考えており、また中には心の中から倫理的に卑劣な要素を吹き払うこと、正しい行いをすること、さらには敬虔さや禁欲さを身につけることだと解釈する人も存在します。

イスラム教徒は、神によって救われる下地を設けることにより、すがすがしさと輝かしさを携えてラマザーン月を終えます。彼らは、断食、神を思い起こすことや神への祈祷、賞賛、コーランの朗誦、そのほかの数多くの善良な行為により、自らの心を輝かせ、心と魂から穢れを払い、新たな段階を迎えると共に、敬虔さや新しい命を蓄えて、崇高なる目標への道を進みます。

言い換えれば、ラマザーン月における神の宴の賓客たちは、罪を遠ざけ、罪から清められる訓練を行い、本来あるべき価値観を見出したことになります。その後も、神に対し、そうした価値観を維持し、好ましくない価値観から解放されるよう願います。実際に、ラマザーン月という学びの場における1ヶ月間の努力の成果はまさに、清らかで健全な本質への立ち返りということになります。それはあたかも、人間が1ヶ月間の連続した修練の後に、新たな生まれ変わりを経験できたようなものなのです。

断食明けを意味するフェトルという言葉は元来、アラビア語で花開くことを意味します。断食明けのフェトルの祝祭の日には、人間は本来の自分に立ち返り、生まれ変わりと新たな開花により、自らの新しい人生を祝うのです。そして、自らを再び清められたことから、自分に誇りを持ち、喜びに浸ります。

 

イランイスラム革命最高指導者のハーメネイー師は、次のように語っています。

「断食明けの祝祭日の礼拝は、ある意味では新たな生まれ変わりへの感謝を意味する。私はこの日には何度も、神に向かって次のように述べる。

“そなたが、選ばれし者に足を踏み入れる許可を与えた信仰心と気質、そして行動というすがすがしさに満ちた天国に、我らを入らせたまえ。そして、創造世界の偉人たちや愛しき人々が遠ざけられてきた卑劣な行いや相応しくない性格、醜悪な信条という地獄から、我らを引き出したまえ”と。

我々は、断食明けの祝祭日に、この大いなる目標を自分たちのために描き、神に求めている。もっとも、我々自身にもこの正しい道を守るよう努力する責務がある。これはまさに、敬虔さである」

 

傑出したイスラム学者で、レバノンのシーア派教徒のかつての指導者でもあったイマーム・ムーサーサドル師も、ラマザーン月の後にはそれまでとは異なる様相をもった新たな人間が出現すると述べています。即ち、その人は1ヶ月間の教育と修練により、さらに人間としての器が大きくなったという実感とともに生きてゆき、断食を経てより精錬された感覚を身につけているのです。断食により、その人は困窮している人々の痛みや苦しみを体験し、忍耐力や中庸さの面で成長を遂げています。こうした偉大な人間は、自分の中で奥深い変革を感じており、断食明けの祝祭の日の朝、施しをして創造主を思い起こし、礼拝を行うときには、新たな人生の門出を祝い、喜びに浸ります。その新たな人生では、自分の感情や行動を律することができるようになっているのです。

これはまさに、シーア派初代イマーム・アリーが、祝祭の日を善良な行いをする人々に報酬が与えられる日としていることに等しいと言えます。人々は、神の恩恵を心で受け取ることで、礼拝の後に喜びに浸り、友人知人や親戚への訪問を開始します。これは事実上、神の満足という新たな1ページを、自分に向かって開くことなのです。

 

 

 

 

 

 

 

2017年06月25日17時39分
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