• 人間の変革の祝祭ー断食明けの祝祭に寄せて(2)

今年も、1ヶ月間にわたるラマザーン月が終了しました。断食をした人々は現在、断食明けのフェトルの祝祭において、自分の内面的な欲望に対する勝利を祝っています。

壮麗なラマザーン月は、神の恩恵に満ち溢れており、その後には断食明けを祝うフェトルの祝祭といった、大きな祝い事が続いています。フェトルの祝祭では、イスラム教徒はラマザーン月という1つの修練過程を成功裏に修了し、この学びの場から大きなものを得たことを神に感謝するのです。今回も前回に引き続き、断食明けを祝うフェトルの祝祭についてお話することにいたしましょう。

 

フェトルの祝祭日、イスラム教徒たちの間には言葉では表現できない独特の情熱や興奮が感じ取れます。数日前から、街中には華やかな装飾がなされ、家々はきちんと清掃されています。一般家庭や公共の場所では、来客や一般来場者を接待する場が設けられています。子どもたちは、真新しい服に身を包み、この祝祭にちなんだお小遣いをもらいます。大人たちも、神の僕としての服従を全うしたことを1つの区切りとし、友人知人や親類縁者同士で訪問しあいます。

このように、フェトルの祝祭はイスラム教徒にとって数々の思い出や追憶に溢れた日となっています。彼らは、この祝祭を、互いの親睦を深め共感を高めるためのもう1つのチャンスと見なし、互いに喜びを表しお祝いの挨拶を交し合います。

 

しかし、イスラム世界は現在、こうした祝賀のムードが満ち溢れる一方で、奥深い痛みも抱えています。イスラム教徒は、世界のほかの地域でこの祝祭のシーズンの最中に困難に直面しているイスラム教徒にも心を寄せており、彼らに対する責任感を感じているのです。このため、断食明けを祝って実施される礼拝では、両手を高く差し上げて祈りを捧げ、暴虐に苦しむイスラム教徒が苦しみから解放されるよう願います。

断食明けの礼拝の開催は、イスラム教徒による最も盛大な宗教的儀式の1つです。精神性に溢れるこの礼拝は壮観であり、イスラム教徒同士の心を結び付けられるものです。イランやパキスタン、インドにはじまり、インドネシア、マレーシア、北アフリカ、その他の中東諸国、さらには欧米諸国にまで及ぶ全世界のイスラム教徒が、一声に断食明けの礼拝を開催します。そして彼らは、団結を促す壮麗な礼拝と言う形で、自分たちが心を1つにし、同調していることを示すのです。

断食明けの礼拝の驚くべき側面の1つは、この礼拝により人々の心に一縷の望みや喜びが根付き、預言者ムハンマドの言葉を借りれば、神が哀れみをもって自分たちを見守っていてくださる、という崇高な概念をもってこの礼拝が人々の心に浸透するということです。このようにして、人々の表情には、神に服従しようという情熱が表れてきます。

 

断食明けの礼拝の後、人々は説教師の訓話に耳を傾けます。こうした訓話においては、集団礼拝の指導者がイスラムの預言者ムハンマドの伝統にそって全てのイスラム教徒を敬虔さや禁欲さへといざないます。それからイスラム世界の現状やイスラム教徒の問題について解説し、互いに対するイスラム教徒の責務を認識させるのです。そして民族や言語、文化、宗派面での違いに関係なく、社会的、政治的に共通の利益について考えると共に、共通の敵に対する注意を怠らず、イスラムを基軸とした同調を強化するよう求めます。

現状を見渡してみると、イスラム世界の問題として戦争や動乱に巻き込まれているイスラム教徒や、イスラム教徒間の共感や同調よりも重要なテーマは考えられないと思われます。最近では、イエメンやシリア、イラク、パレスチナ、アフガニスタン、バーレーンの抑圧された人々をはじめ、サウジアラビア東部のイスラム教徒までもが、恐怖感や情勢不安の絶えない環境に暮らしており、昼夜を問わず常に戦火と背中合わせになりながら日々を過ごしています。断食明けの祝祭は、これらの抑圧された人々に心をはせ、同情する最高のチャンスであり、イスラム世界のどの地域であれ、説教師がこの問題について明快に説明する場は、断食明けの礼拝の説教をおいて他には考えられません。

 

最近、イードと呼ばれる祝祭はイスラム教徒たちの集まりの場として執り行われています。圧制の下に置かれている人々に同情し、彼らへの物質的、精神的な支援に向けた用意を表明することで、イスラムとイスラム共同体の壮観さや盛大さの別の側面が提示されると思われます。

断食明けの祝祭では、イスラム教徒は、決意新たな晴れ晴れとした表情と、すがすがしい心持を持って、唯一神への服従を表明し、同時に覇権主義や反逆行為を全て否定します。この祝祭の礼拝で唱えられる「神は偉大なり」の文句は、神への服従の精神と、神以外の一切の勢力を否定することを物語っています。覇権主義勢力がイスラムの印象を歪め、イスラム教徒たちの間に戦争や不和分裂を起こそうともくろんでいる状況において、断食明けの祝祭はイスラム教徒たちの団結と共感を示し、また彼らの生活に新たな息吹や躍動感を持たすことができると思われます。

 

断食明けの祝祭における共感のもう1つのしるしに、この祝祭に当たっての寄付金の納付があります。人々は、金銭面での行動をとることで、自らの善意や施しの範囲を増やすことになります。このときに納める寄付金は、フェトリーエとして知られ、他のイスラム教徒に対する一種の責任感を示すものです。全てのイスラム教徒は、断食明けの日の朝に、ある決まった量の米や小麦といった食物、或いはそれに代わるいくらかの金銭を貧しい人に施すことが義務付けられています。実際に、このフェトリーエは断食をした人々が施す神への服従に対する感謝の印であるとともに、裕福な人々と貧しい人々の結びつきを深める源となるのです。

フェトリーエを納めることは、神に服従し近づきたいという意志により行われ、精神性を高めるために金銭的な要素を活用する1つの例といえます。断食明けの義務的な寄付は、世俗的、利己的な欲求や物質への執着を切り離す訓練でもあります。

 

現在、一部の国ではイスラム教徒が貧困やその他の困難を抱えながら生活しています。こうした人々の支援を急ぐことこそ、人間としてあるべき姿ではないでしょうか。イスラム世界の片隅で、人々が飢餓や栄養不良により死の危険にさらされているというニュースは、実に聞くに堪えがたいものと思われます。

最近、イエメンでは数多くの抑圧された人々が戦争による飢餓や栄養不良により、死の危険と戦っています。彼らは、イスラム教徒の同胞たちによる支援を心待ちにしているのです。他のイスラム教徒が断食明けに納めるフェトリーエは、こうした人々に対する支援にかかる費用の多くをまかなえるのです。

フェトリーエは、恵まれない人々のニーズを確保すると共に、モスクや学校、橋や道路、学校の建設、そのほかの公共サービスにも利用されます。このように、断食明けを祝うフェトルの祝祭では、誰もが自分のできる範囲で恵まれない人々の悲しみを癒し、社会における協力や団結の精神の拡大に寄与できるのです。

イスラム教徒は、断食明けの祝祭日の集まりに参加し、互いに寄り添うことで、現実の問題や困難のほか、相互間の意見や見解を認識することになります。こうした集まりにおいては、敵愾心や怨恨が友愛に変わり、信者たちは一列に整列して、団結心を感じ、また相互間の親睦をさらに深めるのです。

 

 

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2017年06月25日18時42分
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