2019年09月09日03時41分
  • 追悼儀式
    追悼儀式

モハッラム月はシーア派3代目イマームホサインの追悼儀式が行われる月です。今回は、イランの文化における追悼、追悼儀式についてお話しすることにいたしましょう。

 

イランの文化において確認されている最初の追悼儀式は、フェルドウスィーの叙事詩「シャーナーメ」の英雄スィアーヴァシュの追悼です。ブハラの歴史で語られているものには、「ブハラの人々はスィアーヴァシュを追悼する中で、多くの悲歌を歌った」とあります。この哀歌は多くの地域で知られており、演奏者や歌い手がメロディーをつけ、ゾロアスターの聖職者の嘆きとして歌われていました。その歴史は3000年前に遡ります。

ハーラズム(トランスオキシアナ)のゴイガリルガーン城砦、スィーアヴァシュの追悼儀式の場所

 

ブハラは、現在のウズベキスタンにあるペルシャ語圏の都市ですが、かつてはイランの領土の一部でした。ブハラの歴史以外にも、ウズベキスタンのサマルカンドのそばで発見された壁画は、スィアーヴァシュを追悼する様子を表しています。

バンジュキャンドの壁画、追悼者の肩にのせられたスィアーヴァシュの棺の象徴

 

シーア派3代目イマーム、ホサインの最初の追悼儀式は、彼の殉教後数年たってから、メディナで預言者一門と支持者たちによって行われました。

イマームホサインの追悼

 

一方、イランでイマームホサインの追悼儀式はブワイフ朝のアフマド王の時代に広まりました。ブワイフ朝の前には、シーア派、アラウィ派は共に集まって追悼を行っており、黒い服を着て、追悼のしるしとして黒い旗を家の前にかけていました。シーア派6代目イマーム、サーデクはイマームホサインの殉教日の前日と当日に家に留まり、近親者たちが哀悼を表明するために彼のもとを訪れていました。

一方でこの儀式は、強い支持がなかったこと、行政機関から圧力がかけられていたため、各地で散発的に行われていました。こうしたアッバース朝カリフによる圧力は日ごとに拡大していき、アッバース朝のムタワッキルの時代に、カルバラのイマームホサインの聖なる墓は彼の遠征軍によって破壊されました。ムタワッキルはイマームホサインの聖地の破壊を命じ、カルバラの墓の全てを消滅させました。

ブワイフ朝のシーア派政府は、モハッラム月の追悼を設定しました。この時代、毎年モハッラム月には盛大な追悼儀式が行われていました。この儀式はシーア派の中心地であったバグダッドにおいてより盛大に執り行われていました。シーア派の中心だったゴム、カーシャーン、サブザヴァール、サーヴェも、追悼期間中、正式に休みとなり、宗教的な場所で儀式が行われていました。この時代から水や飲み物を配る風習が根付きました。追悼者は路地を黒い布で覆い、悲歌を歌っていました。しかし大きな旗や飾りを持って練り歩く習慣はこの時代には見られませんでした。

ブワイフ朝が衰退すると追悼儀式は禁止となり、隠れて行われるようになりました。ティムール朝の終わりまで追悼儀式が行われたという情報はほとんど見られません。ティムール朝時代には悲歌の書物が書かれました。この時代、首都だったヘラートでは、最後の王、フサイン・バイカラの時代から儀式が行われるようになりました。ティムール朝政府はある程度まで、シーア派に自由に行動させていました。サファヴィー朝政府が台頭し、シーア派がイラン人の宗教として正式に認められると、預言者一門、とくにイマームホサインの追悼は更なる重要性を帯びるようになりました。

サファヴィー朝時代には、追悼の風習が各地に広まりました。この時代にイラン全土、とくにゴムやカーシャーンといったシーア派の地域で盛大な儀式が行われていましたが、地区や都市でその盛大さが競われていました。こうした中、ガージャール朝時代には最多の追悼儀式が形成、あるいは強化されました。現在の追悼儀式の多くがこの時代から残っているものです。そして初めて追悼儀式の場所がホセイニーエという施設に変わりました。これ以前にそのような名前は存在しませんでした。

ガージャール朝時代の追悼

 

サファヴィー朝の台頭は、単なる政治的な変化ではありませんでした。なぜなら、彼らの台頭により、国の全ての文化的基盤が変化したからです。イスマイール1世が権力の座に着き、シーア派が正式な国教として承認されました。

サファヴィー朝は、人々がシーア派の教義を知らないという問題に直面しました。なぜなら、そうした教義の書物が存在しなかったからです。宗教を広める上で、イスラム法学者や宗教書の不足や欠如といった問題に直面したのです。このため、シーア派のアラブ人の学者を出来る限りイランに呼び寄せようとしました。

イスラム法学者がイランに入ってきたことで、シーア派の布教が拡大し、それと共にその文化的要素も拡大しました。イランの一般女性の文化に大きな影響を与えたものが、イマームホサインの追悼、カルバラの悲劇の吟唱集会の開催でした。

イマームホサインの追悼は、イマームの時代から存在し、ブワイフ朝時代の963年に拡大し、バザールや街頭で行われるものに変わりましたが、サファヴィー朝が台頭する前までは、力のある社会システムとして存在するものではありませんでした。ブワイフ朝が去り、この習慣もまた衰退し、セルジューク朝の台頭により、完全に消滅しました。

一方でサファヴィー朝が台頭し、家の内外、モスク、宗教施設、礼拝所、バザールでのホセインの追悼儀式の開催において行われた努力により、イマームホサインの追悼はひとつの社会システムとなりました。サファヴィー朝の衰退後、この風習は消滅しなかったばかりか、日ごとに力を持っていきました。

イマームホサインの殉教についての語り

 

ガージャール朝のナーセロッディーンシャーはモハッラム月の殉教劇を行うための政府の施設を建設しました。サファヴィー朝時代に生まれ、ザンド朝時代に形が整えられた殉教劇は、この時代に安定しました。イマームホサインとその一族を称える歌や旗や飾りを持って練り歩く習慣もこの時代に生まれました。この儀式は毎年、民間、そして政府の特別な儀式によって開催されています。

カルバラの悲劇を吟唱するための書、ロウゼハーニーは、最も重要な追悼の源であり、ガージャール朝時代に追悼儀式で吟唱を行う語り手たちはその名で知られていました。

追悼儀式

 

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