2019年05月11日22時30分
  • 聖典コーラン
    聖典コーラン

今回も前回に引き続き、コーラン第6章アル・アンアーム章家畜を見ていくことにいたしましょう。

慈悲深く、慈愛あまねき、神の御名において

「現世の生活は、戯れや遊びに過ぎず、来世の住みかこそ、敬虔な人々にとって、よりよい場所である。あなた方は考えないのか」

コーラン第6章アル・アンアーム章家畜、第32節

聖典コーランはこの節の中で、人間の成長のために、互いになくてはならない現世と来世の生活を比較しています。コーラン解釈者によれば、現世の生活が、遊びや戯れになぞらえられているのは、それらが通常、実際の生活とはかけ離れた空想的なものであるためです。あらゆる遊びや戯れの後は、全てが本来の場所に戻ります。娯楽のために作られた台本にも、戦争の場面や愛情、憎しみの場面がありますが、数時間後には、物語の主人公も、また舞台も出来事も消えてなくなります。現世はこの台本のようなものであり、その役者となるのは、現世を生きる人々です。時にこうした遊びや戯れは、それが早く終わってしまうことに気づかないほど、人間を夢中にさせることがあります。

 

冒頭でご紹介した節で、神は、現世での生活を戯れや遊びであるとした後、来世での生活を、それと比較しています。とはいえ、現世の表面的な魅力に注目すると、全ての人が、その事実を理解することは不可能でしょう。そのため、人々に対してよく考えるように呼びかけています。そして、人間に対し、次のように尋ねています。「なぜ深く考えないのか、そうすれば、来世の住みかは、現世以上に大きく、高いものであることを悟るのに。そこでは永遠の生がある。すべてのものは真実であり、その恩恵は、苦しみを伴ったものではなく、恩恵に溢れている」

 

アル・アンアーム章の節は、社会を階層別に分ける考え方を否定しています。コーランの解釈に関する、ある書籍には次のように記されています。「クライシュ族の一団が、預言者の集会のそばを通り過ぎた。預言者のそばには、数名の貧しいイスラム教徒がいた。クライシュ族の人々は、そのような場面を見て驚いた。クライシュ族の人々は、社会的な地位や富によって人間の価値を決めていたため、信仰を持つ預言者の教友たちの精神的な偉大さを理解することができなかった。そのため彼らは言った。『ムハンマドよ、あなたは多くの人々の中から、ここにいる人々に満足したのか? 彼らは、神が私たちの中から選び、私たちが追従すべき人々なのか? もし私たちがあなたに近づき、あなたに従うのを望むのなら、今すぐにでも、彼らを自分の周りから追い払いなさい』 そのときに、第6章アル・アンアーム章の第52節と53節が下されました。

 

「また、朝と夜に神に祈り、神の清らかな性質についてのみ、考える人々を遠ざけてはならない。汝は彼らの清算を任されているわけでもなく、あなたの清算が彼らに任されているわけでもない。もし彼らを追い払えば、汝は圧制者の一人になるであろう。このように、我々は彼らの一部を、他の人々によって試す。それは、『神が私たちの間から[選び、信仰という]恩恵を与えたのは彼らですか』と言わせるためである。神は感謝する者たちをよりよく知っているではないか」

 

 

この2つの節は、預言者に対し、信仰のある人間を、どの階層や人種に属すものであっても、自分の許から追い払ってはならず、同じように、彼ら全てを迎えるよう求めています。イスラムとコーランの偉大さを示すしるしの一つは、裕福な人間の誤った要求に対して頑なに抵抗し、階層による根拠のない特権を非難していることです。

 

イスラムと預言者に反対する敵の一人に、アブージャハルという人物がいました。彼はある日、預言者を激しく非難しました。その日はちょうど、預言者の勇敢なおじであるハムゼは、猟のために荒野に行っていました。ハムゼが猟から戻ると、甥のムハンマドがアブージャハルから嫌がらせを受けたことを知りました。そこで、ハムゼは非常に腹を立て、まっすぐにアブージャハルの許に向かい、彼に自分の行いの報いを受けさせようとしました。アブージャハルは、メッカの人々や部族の間で影響力を持っていたにも拘わらず、それに反発することはできませんでした。ハムゼはそのときまで、イスラムを受け入れていませんでしたが、甥のムハンマドがもたらした教えについて、いつも考えていました。そして、その日の出来事を境に、預言者の許に行き、イスラムを受け入れました。その日から、ハムゼは正式に、イスラムの将軍として、自分が命を落とすまで、この天啓の教えを守りぬきました。この出来事の際に、アル・アンアーム章第122節が下されました。この節は、心に信仰の光りを溢れさせた人について触れ、そのような人物を、不信心の闇に陥ったアブージャハルのような人間と比較しています。

 

「死んでいた者を、その後我々は生き返らせ、その人に光りを与えた。それによって人々の間を歩む人は、闇の中にいて、そこに留まるような人と同じであろうか。このように、不信心者には、その人が行った[醜い]行いが飾り立てて示される」

 

この節で、迷いに陥った後、真理を受け入れ、信仰を寄せることにより、方向を転換した人々が、死に、その後、神の恩寵によって蘇った人々になぞらえられています。コーランは、繰り返し、生と死、信心と不信心を同意語として捉えています。このようなコーランの優美な表現は、信仰が単に、乾いた中身のない考え方ではなく、精神的なものであることを示しています。それは、信仰のない人々の魂のない心に吹き込まれ、その人の全身に影響を及ぼし、その人を蘇らせるのです。

 

アル・アンアーム章の節は、世界の創造における神の英知と措置を描いています。この章は、神の特別な性質について語ることもあれば、様々な現象の創造における神の類まれなる力についても述べています。第59節には次のようにあります。

 

「目に見えない世界の鍵は、神の許のみにあり、神以外の誰もそれを知らない。神は大地と海にあるものを知っており、神が知らずに、木の葉がたった1枚でも落ちることはない。また、明らかな書物に記録されていない限り、大地の隠れた場所にある種もなければ、湿ったもの、あるいは乾いたものも存在しない」

 

この節では、唯一の創造主は、海底深くにある数十億の生き物の動き、森や山に生える木の葉のふるえ、花がつぼみをつける時期、草原や渓谷、山々に吹くそよ風の流れ、人間の体の細胞や、血液の中の血球の正確な数を知っているとされています。また、秋の強い風が森に吹いた後、地上に落ちた木の葉の数も知っています。それは、神の無限の知識のほんの一部分であり、この節によれば、神は大きなことも、細かいことも、全てを完全に把握しているのです。

 

この章の別の節は、唯一神信仰の根拠について、創造と創造の秩序の神秘の生き生きとした例や興味深い表現によって述べています。

 

「神は種を割り、死者から生きた者を創造し、また生きた者を死なせる。それがあなた方の神である。それなのになぜ、あなた方は真理から逸脱するのか?」

 

植物の世界において、種が割れることは、驚くべき出来事であり、コーランはそれを、唯一神信仰のしるしのひとつとして指摘しています。この節は、生と死の仕組み、生物のある状態から別の状態への変化について触れています。神はときに、魂のない無機物から、大洋や荒野に生きた生物を生じさせたり、大きな変化によって、力のある生き物を、魂のないものにしたりします。

 

動植物の生の問題は、最も複雑な問題であり、人類の知識は、その神秘を突き止め、無機物や自然の要素が、どのようにして生き物に変わるか、その仕組みを知ることはできていません。コーランは、神の存在を証明するために、何度もそのことに触れています。コーランは、天と地の存在、星の輝きを、考える人々にとってのしるしであるとし、そのような世界が目的もなく創造された可能性などあるだろうかとしています。そのため人間は、神の特別な創造物として、自らの状態に気をつけ、行動をコントロールする必要があります。コーランの節によれば、イブラヒームやムーサーなど、神の偉大な預言者たちも、ナムルードやフィルアウンといった圧制的な為政者に対し、全知全能の神による世界の創造と生の現象を説明していたということです。

 

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