2019年09月12日00時00分
  • シーア派4代目イマーム・サッジャード
    シーア派4代目イマーム・サッジャード

今回は、シーア派4代目イマーム・サッジャードの生涯についてお話することにいたしましょう。

イマーム・サッジャードは、シーア派3代目イマーム・ホサインの息子に当たり、実名はアリー・イブン・ホサインとなっています。イマーム・サッジャードとは、彼の別名であり、サッジャードとはひれ伏す者を意味します。

イマーム・サッジャードは、西暦658年にサウジアラビア西部のメディナの町で生誕しました。彼がシーア派の指導者としてのイマームの地位にあった時代は、彼の人生における重要な時期であり、父親のイマーム・ホサインがイラクの町カルバラーで殉教した後に始まっています。アーシュラーの殉教事件とと呼ばれる西暦680年のその日は、カルバラーの砂漠の地が、イマーム・ホサインとその教友による英雄伝の舞台となり、また敵が卑劣な犯罪行為を起こした日でした。その一方で、イマーム・サッジャードは深い悲しみと懸念を抱きながら、この恐ろしい事件を見守っていました。この運命的な日に、イマーム・サッジャードは重い病を患っていたために、時の圧制者と戦う父親に同行できなかったのです。しかし、彼は父を助けたい思いから、焦燥感にかられていました。

 

しかし、神の思し召しにより、イマーム・サッジャードはカルバラーの事件に遭遇せずに生き残り、その後にイスラム共同体の指導者、そしてイマームとしての重要な任務を担うこととなりました。イマーム・サッジャードの在任期間は34年間に及びましたが、彼の責務のうちでも特に重要だったのは、父ホサインの抵抗運動を全世界の人々に知らしめることでした。

 

もっとも、アーシュラーの出来事とウマイヤ朝政権によるイマーム・ホサインの殉教の後に閉塞感が強まったことから、イマームとしての責務の全うには、数多くの困難が付随してくるようになりました。カルバラーの事件後間もない時期から、父ホサインの抵抗運動のメッセージを広めるという、イマーム・サッジャードの努力が始まったのです。父ホサインとその忠実な教友たちの殉教を悲しみ、心を痛めている中で、イマーム・サッジャードは何事にも動じない不屈の精神をもって、可能な限りあらゆる機会を見つけては、預言者一門の人徳を語り伝えました。このようにして、イマーム・サッジャードの指導により、カルバラーでの抵抗運動は、その思想の基盤を固めるという新しい段階を迎えることになります。

 

イマーム・ホサインとその教友たちが非業の死を遂げた後、イマーム・サッジャードと彼の父方のおばに当たるゼイナブを初めとした捕虜の一団は、まずイラクの町クーファに、その後は時の支配者ヤズィードの政権の本拠地であるシリア・ダマスカスへと押送されました。イマーム・サッジャードは、捕虜として抑留されていた期間中も、ひるむことなく赤裸々に真実を語り続けたのです。

 

イマーム・サッジャードの生涯のうちでも最高の見せ場は、ダマスカスにある暴君ヤズィードの宮廷で、ウマイヤ朝政権の実態を白日の下にさらした瞬間だといえるでしょう。彼は、その集まりの場において、堂々と熱弁をふるい、毒舌ぶりを発揮してウマイヤ朝の役人らを震え上がらせました。イマーム・サッジャードがヤズィードの宮殿に足を踏み入れた瞬間に、ヤズィードは自分が勝ったと思い込んでいました。それは、全てが自分の思惑通りにいくと見ていたからです。しかし、イマーム・サッジャードは演壇に立つや否や、大胆不敵な演説を開始したのでした。

 

イマーム・サッジャードの演説は、居合わせた人々に強く訴えかけ、彼らの心を揺さぶりました。このため、四方八方から人々の号泣する声が聞こえてきました。ヤズィードはやむなくイマーム・サッジャードの弁舌を止めさせましたが、それは彼の演説に人々が感情をそそられ、ウマイヤ朝への反逆に立ち上がることを懸念していたからです。ヤズィードは、イマーム・サッジャードやその他の捕虜たちとダマスカスの人々の緊密なやり取りを恐れていました。このため、彼は一刻も早くカルバラーの事件での捕虜たちを中央政権から遠ざけ、彼らをメディナに送り返すしか方法はないと考えました。

 

しかし、イマーム・サッジャードとその他の捕虜たちがメディナに戻った途端、またもや真相を暴露するイマーム・サッジャードの別の計画が始まりました。明快で、しかも痛烈な彼の弁舌は、社会的に大きな影響力を持っていました。その結果、彼は人々の間に一大旋風を巻き起こし、イマーム・ホサインの抵抗運動の波紋はアラビア半島のヒジャーズ地方やイラクの各都市をはじめ、その他の地域にも広まることとなったのです。

 

ウマイヤ朝時代の社会状況を考察すると、当時の社会が信条や思想面での危機に瀕していたことが分かります。ウマイヤ朝政権は、カルバラーでの事件の後、公然と腐敗の拡大や暴虐に手を染め、イスラムの神聖に矛先を向けました。彼らは同時に、さほど必要性のない事柄に人々の目を向けさせることに努めました。当時のイスラム教徒たちの問題の多くは、為政者のモラルの退廃や腐敗によるものでした。このため、イマーム・サッジャードはウマイヤ朝の偽善的な体質の暴露と、野心に満ちた彼らの政策との戦いに加えて、社会改革を目的に文化に根ざした運動を起こしました。専門家の見解では、腐敗や犯罪がはびこり、全てがウマイヤ朝の圧制のもとにさらされていた社会において、イマーム・サッジャードの行動は用意周到で効果的なものだったとされています。彼は、時代の趨勢を見極めた上で、実際にイスラムとイスラム教徒を歴史的な難所から救い出したのでした。

 

アーシュラーの出来事以降の動乱の時代に、イマームサッジャードが成し遂げた実績の1つに、学術活動が挙げられます。彼は、預言者のモスクにおいて討論会や学問の集まりの場を設け、適正で優れた門下生たちを育てました。彼らの一部は、学問の分野における著名人として名声を博しています。

シーア派4代目イマーム・サッジャード

 

イスラムの教えや、その倫理的、教育的な基盤の伝播を目指した、イマーム・サッジャードの歩みは綿密に計画されたものであり、多くの賢者たちから称賛されました。学術面での彼の名声は、イスラム世界の津々浦々に響き渡り、有識者の間でイマーム・サッジャードは当時の最高の学識者と見なされていました。数多くの学者やイスラム法学の専門家がイラク、ヒジャーズ地方、イラン北東部ホラーサーン地方など、各地からイマーム・サッジャードの元にやってきて、学識豊かな彼の教えを受けました。彼らの中には、名誉としてイマーム・サッジャードに弟子入りした人々もいました。イスラム教徒の思想家シェイフ・モフィードは、イマーム・サッジャードの学識の幅広さを称賛しています。

 

イマーム・サッジャードは、思想面での活動に加えて、社会活動にも従事していました。彼は、特に社会的に弱い立場にある人々に同情し、毎晩食糧の入った袋をかつぎ、顔を見られないようにして恵まれない々の家を訪ねては彼らに食糧を施していたのです。彼は、「人目を避けての施しは、神の怒りを和らげる」と述べています。

 

イマーム・サッジャードは、寛大さと優しさ、そして博愛の精神を持つことで知られていました。彼の善良さやよい行い、他人を赦すことの出来る寛大さ、謙虚さや礼節さ、上品さは多くの人々を魅了しています。この偉人の生涯について伝えられているところでは、イマーム・サッジャードは様々な折にカルバラーの事件での殉教者の追憶を人々の記憶に蘇らせたということです。

 

イマーム・サッジャードは幅広い学識や教養、正義を求め圧制を排斥する精神を持ち、この上ない人望の厚さを誇っていたことから、ウマイヤ朝の暴君たちは常にこの人物を警戒していました。そして遂に713年、この偉人は時の為政者ワリード・イブン・アブドルマリクの命令により毒殺されたのでした。

サウジアラビアの聖地メディナにあるバギー

 

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