2019年09月02日14時35分
  • イランの遺跡
    イランの遺跡

サーサーン朝がアルサケス朝に代わって台頭しても、広大な土地におよぶイランの支配に重要な変化はなく、イランは過去のように、当時の文明世界の半分を治め、また世界の西半分はローマ帝国によって統治されていました。この時代、中央アジアのオキサス河流域のマーワラーアンナフル地方、即ちトランスオキシアナと呼ばれる地域でも、とりわけサマルカンド、ブハラなどに集住していたイラン系のソグド人が、中国西部のトルキスタンにおいて文化的、商業的活動を導いていました。それらの多くは、イラン文明から直接的な影響を受けていました。この時代、中国のトルキスタンは実際には、イランの外縁部の一部だったのです。

サーサーン朝の統治体制では、イラン人がローマ人と頻繁に軍事衝突を起こしていたアルサケス朝時代とは異なり、イランとローマの両文明の間で文化的、学術的な交流が行われました。ローマ人の捕虜はイランに定住し、熟練した技術を持ったローマ人の技術者はインフラの整備のため、或いは彼らの中でも学者、特に医学者が、名門のジョンディーシャープールのような学問の中心地で重く用いられました。

紀元7世紀にあたるイスラム暦2世紀、イスラム軍がサーサーン朝の西側を攻撃し始めました。651年、サーサーン朝の最後の皇帝ヤズデギルド3世が暗殺され、サーサーン朝は滅亡しました。この王朝が意外にも滅亡した重要な原因は、宮廷官僚の間の汚職の増加、人々に対する圧制や不公平の広がりだとされています。一方、イスラム教の真理と公正を求める教えは、イランの人々を強くひきつけました。イランがイスラム教徒によって平定された後、イラン系の人々の活動は文明世界の全域いおいてより多面的なものとなったのです。イスラム教という世界的な宗教、そしてその日増しの拡大により、イラン人は世界のもっとも遠い場所にまで足を伸ばすようになりました。

ローマ帝国が分裂し、ゲルマン人やアングロサクソン人、スカンジナビア半島のバイキングがヨーロッパを世界的な文明から遠ざけていた時代、イランの人々はイスラム文化によって最新鋭の国際的な文化と文明を守る義務を負っていました。彼らはイスラムの高尚な教えを活用し、アジアを西ヨーロッパのように中世の思想の暗黒に陥らせず、先進的で創造的、そして成熟する動きから生じた、世界的な文化や文明をできる限り残そうとしたのです。

イスラム教徒のアラブ人たちは、イランの文化的な領域における新たな帝国の建設計画を立て、イラン人、とりわけイランの上層部の人々の協力により、イランイスラム文明の版図を北は中央アジア・トルキスタン北部から、西は現在のトルコに当たる小アジア、そしてスペインまで拡大しました。イランの人々は間もなく、それほど抵抗することもなくイスラム教を受け入れ、文化面でアラブ人の遊牧民族ベドウィンよりも遥かに進んでいたことから、すぐにイスラム帝国の文化と運営を担当する最高の役職に就きました。彼らは、アケメネス朝のように世界的な拡大を見せたこの帝国の全域に分散し、学術、行政、宗教などの様々な分野において重要な地位を得たのです。

イラン人は1000年近く、支配当地をめぐってローマ帝国といった強大なライバルと対峙し、結果として、ローマ帝国の支配下にあった当時の世界の半分の地域に勢力を及ぼすために、甚大な苦労を重ねました。しかし、イスラム帝国が強力になったことで、ローマ帝国は小アジアとヨーロッパにとどまり、軍事的な圧力の影響によりその勢力範囲の大部分をイスラム教徒に譲りました。イスラム帝国軍は、現在イスタンブールとして知られるビザンツ帝国の首都コンスタンチノープルにまで到達しましたが、他に例を見ない堅固な防衛に阻まれるなど様々な理由により、ここを開放することはできませんでした。

イスラム教徒はある時期まで、小アジアにおけるローマ帝国の支配を覆すことができませんでした。しかし、彼らはシリアとレバノンを統治下におくことで地中海に進出し、その後の小アジアへの攻撃と勢力拡大のためのルートを手に入れ、アジアの勢力として初めてスペインを通じてヨーロッパへの到達に成功したのです。以前ローマ帝国の影響下に置かれていた北アフリカと、その地中海沿岸地域は、最終的にイスラム教徒の手に落ち、イスラム・イラン的な文明と文化が拡大する下地が整いました。研究者は、イランの人々がたやすくイスラム教に改宗したのは、イスラム思想が世界に広がる包括的な事柄を主張し、常に包括的な文化や拡大する文明を有していた、イランの人々の性質や教育と合致している、世界的な政治体制を立ち上げたことが原因であると考えています。

ウマイヤ朝のカリフによる支配の版図は、急速に当時の文明世界の全体に広がり、ヨーロッパと中国を除いた、世界中の多くの重要な場所を平定しました。次第にイスラム教徒のアラブ人や、世界への進出に関心を持つ、新たにイスラム教に改宗したイラン人が進み出て、イスラム以前はイランの文化的な影響の範囲外にあったトルキスタン、小アジア、スペインなどの世界各地に、今度はイスラム的な要素を持つイラン文化圏が広まったのです。

イランの人々はイスラム暦2世紀にあたる7世紀から8世紀の100年間、ウマイヤ朝のカリフ制ではなく、アッバース朝のカリフ制を精神的、軍事的な支援に定着させました。イランの人々がアッバース朝を支持したことから、イランの文化とこれを担う人々はイスラム帝国の全てが、自分たちの文化、商業、芸術の各活動のために開放されていると見なし、イスラム世界で自分たちの文化を作り出す下地を整えました。こうして、イランの人々は、新たなイスラム帝国において、比較的短い停滞期を経て、歴史的、世界的な役割を果たすよう努力したのです。

各地に散らばったイランの偉人たちは、正統カリフ時代として知られるイスラム初期の時代、つまりイスラム教徒のアラブ人がサーサーン朝のクテシフォンやファールス地方を平定したときから、イスラム教徒と協力し始めました。宗教や行政、それ以外の文化面といった諸側面にわたるこの協力や影響は、アッバース朝カリフの支配により、強くなっています。イランの人々は、自分たちの古代の宗教を捨て、イスラム教などの躍動的で豊かな宗教に入信し、自分たちの豊かな文明を利用して、次第にイスラム以前からの長所や利益の多くを再び獲得しました。そして、名誉ある富裕な人々として、またアッバース朝の大臣、学者、法学者、ハディース学者、芸術家、官僚という権力者としてイラン・イスラム文化を世界各地に広めたのです。彼らは、イスラム教徒の様々な民族との文化的な交流と、イラン・イスラム文化と文明を、彼ら独自の方法で融合させることにより、イランの文化をオリジナルで強力なものにする下地を整えました。

カリフ体制の首都がダマスカスから、古代イランの首都クテシフォンに近いバグダッドに移ったことで、アッバース朝はイランの人々が多く住む中心地となり、これによりある程度、彼らとアラブのベドウィン族との関係は失われました。この時期の重要な情勢変化とは、サーサーン朝時代にはイランの人々に対して閉ざされていた、レバノンやシリアに向かう道がイラン人に開かれたことです。これにより、イランの人々は、かつてイランの政治、人口密集の中心だったチグリス・ユーフラテス川流域だけでなく、地中海沿岸・シリアにまで進出するようになり、イランの人々の居住地域がこの地域にも設けられました。ウマイヤ朝時代のアラブの海軍の大半は、イラン人により構成されており、アラブ人はイラン人の進んだ航海術を利用せざるを得なかったのです。このイランの船乗りたちは、レバノンの古い沿岸地域の町であるシドンやティルス、さらには地中海南岸のトリポリにまで住むようになり、これらの町でイラン人としてのアイデンティティを明確に示すようになりました。

一部の人々の間では、イランの人々が船乗りの民族ではなく、西側の人々のみがこの技術を持っていたと考えられています。しかし、その一方でアル・ハマウィによる『諸地域の辞書』やアル・ムカッダシーの『諸地域を知るための最良の書』には、イランの人々がイスラム初期時代から優れた航海術を持っていたことが明らかにされています。イスラム時代以前には、イランの船乗りたちの活動の場のは多くは、インド洋沿岸や紅海、ペルシャ湾やオマーン湾などでした。しかし、イスラム時代以降、イラン人の海上における行動範囲はさらに拡大し、地中海南岸やジブラルタル海峡にまで及びました。イラン人のイスラム改宗により、彼らの力や威信は下がらなかったのみならず、これまでにないほどの栄光を得ることになりました。その後の時代においても、イランの人々やイランの文化は、ヨーロッパ人が支配していた地中海北岸以外の、世界の重要で戦略的な沿岸地域の多くで、確実な足取りを進めて行ったのです。

 

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