• アンダルス
    アンダルス

アンダルスと呼ばれたイベリア半島は、ヨーロッパ南部にあたり、スペインとポルトガル、そしてイギリス領・ジブラルタルを含んでいます。この地は、800年間イスラム文明が存続し、文化、社会、経済、政治のさまざまな方面での東西を結ぶ架け橋となったのです。

古くからアンダルスにはイベリア人と呼ばれる人々が住んでいましたが、フェニキア人やギリシャ人も住んでおり、カルタゴがこの地に入った後、彼らはこの地に定住しました。また、長い期間にわたり、ローマ帝国がこの地域を支配していました。

イベリア半島は、ローマにとってとても必要な場所でした。なぜならこの地域はアフリカとヨーロッパの境に位置し、この2つの大陸を結ぶ場所にあったからです。ローマ人は5世紀までアンダルスを支配していましたが、イベリア半島にゴート人が移住する中で、ローマ人は追い出されるようになりました。

こうして、6世紀、アンダルスはゴート人に支配されていました。ゴート人の王は大変横暴で、その圧政は人々を犠牲にするほどのものでした。その後、714年、イスラム教徒の攻撃の際、ほとんどの重要な町がイスラム教徒の軍を迎え入れました。言い換えれば、その腐敗した統治体制から逃れるため、イスラム教徒の信仰によりどころを見出したのです。

イスラム教徒がスペインに入ったのは、708年、ウマイヤ朝のワリード・エブネ・アブドルマレクの時代に当たります。かれはムーサー・エブネ・ヌサイルという人物を、イスラム教徒によって新たに平定された北アフリカの統治者に指名しました。彼は他の地域を支配し、その人々にイスラムに改宗するよう呼びかけようとしました。このため、スペインに注目したのです。

ムーサー・エブネ・ヌサイルは、ターレグ・エブネ・ズィヤードという人物に対して、スペインを平定するよう命じました。彼はわずかな軍勢を率いて、船でジブラルタル海峡を超え、711年8月、ジブラルタルに入りました。彼らは4年でアンダルス全土を平定しました。

 

ターレグ・エブネ・ズィヤード

 

ターレグがスペインに進出した際、ヨーロッパは知識や学問を忌み嫌っていた場所でした。多くの人々、特に学者は異端審問にかけられ、背教者や魔女と非難されていました。これらの人物はまず拷問され、最終的に非人道的な形で処刑されていたのです。イスラム教徒が入った後、この地域の運命は根本的な形で変わったのです。

イスラム教徒はアンダルスを平定した後、この地のキリスト教徒とユダヤ教徒の自由を保障し、また、イスラムの税金を支払うことで、彼らを保護下に入れていました。キリスト教徒に対するイスラム教徒の対応により、キリスト教徒はイスラム政権下においていつの時代よりも多くの自由と安全を保障されていました。彼らの財産と信仰の場は守られ、基本的に彼ら自身の法によって裁かれていました。

この信教の自由により、キリスト教徒はイスラム教徒に親しみを持ちました。また、イスラム教徒の男性とキリスト教徒の女性の結婚も、普通に行われていました。それどころか、一部のキリスト教徒は、自分の名前をイスラム教徒のそれに変え、一部の儀式においてはイスラム教徒の隣人を模倣していました。

アンダルスのイスラム教徒は、ユダヤ教徒に対しても親和的に振舞っていました。ヨーロッパの一部地域でユダヤ教徒の虐殺が始まったとき、彼らの一部はアンダルスに避難し、イスラム教徒の保護下で安全を保障されていました。

 

 

 

イスラム教徒のアンダルス平定に伴い、この地域の文化や芸術も繁栄しました。20世紀の学者ヘンリー・ルーカスの文明史に関する本では、スペインにおけるイスラム教徒のすばらしい業績は、ヨーロッパの文化にとって、特別な重要性を有している、とされています。

また、スペインがイスラム教徒に対して開かれた後、イスラム教徒の為政者により、この地域は文化や知識、思想に触れることになりました。イスラムの価値観や伝統を受け入れた後、人々の生活は急速に変化しました。コルドバ、トレド、グラナダといった町は学問、文化、芸術の中心地となり。イスラムの知識がこの土地から、フランスやドイツなどキリスト教徒の地に輸出されたのです。

イスラムがイベリア半島一帯にあたるアンダルスに入った後に出現した科学技術的な運動は、人々の能力を開花させ、イブン・ルシュド、イブン・アラビーといった人々を今に伝えています。コルドバの図書館には、4万冊の蔵書が収められていました。一方で、12世紀のキリスト教のヨーロッパ地域最大の図書館には、数百冊以上の本はありませんでした。

アンダルスのイスラムは、進歩と繁栄、社会秩序の形成などの要因となりました。つまり、各都市は、その広さ、公共財産、通信の点で、急速に発展しました。また、紡績や織物といった分野の産業も、目覚しい形で発展を遂げました。

グラナダは、布製品をヨーロッパ各地に輸出していたことから名声を博していました。高品質の多様な布がヨーロッパ市場に流入することで、ヨーロッパのキリスト教徒の服装もイスラム教徒社会におけるそれと類似するようになったのです。

また、アンダルスのガラス産業も、繁栄を極めました。アッバース・ブン・フィルナースという人物は、石英からガラスを作った最初の人物でした。コルドバ出身の彼は9世紀、めがねや複雑な仕組みの温度計、また、飛行装置などを発明しました。

イスラム教徒は、新たな形の国や村の生活を伝えることで、この地を変えたのです。イブン・アンワームという学者は、600種近くの植物について研究し、農業関連の書を記しました。この本の価値とは、土や物質、植物の病気、その治療、どのように果実を保存するかについて、興味深い研究を行い、新たな発見を得たという点にあります。

ヨーロッパの人々は、農業の発展や畑作の技術において、アンダルスのイスラム教徒の方法を活用し、綿や麻、サフランといった植物をヨーロッパに導入しました。農業の繁栄は、商業にも影響を与え、マラガ、アルメリアといった港は輸出の中心地となりました、スペインで作られた製品は、ヨーロッパの一部に輸出され、また、メッカ、バグダッド、ダマスカスの市場でも、アンダルスの製品が見られました。

アンダルスにおける巨大な建造物も、イスラム教徒の力を示しています。大きな柱、三日月状のアーチ、尖塔やドーム、漆喰細工などは、アンダルスのイスラム教徒の建築技術を物語っています。コルドバのメスキータ、金曜モスクは、この時代の最も優れた建造物です。確かに一部は、キリスト教徒のレコンキスタ・再征服後に破壊されました。しかし、そのほとんどの部分は、9世紀末と同じ状態で残っています。

 

コルドバのメスキータ

 

 

20世紀のドイツの研究者、シグリッド・フンケは、次のように語っています。

「スペインはイスラムの芸術が頂点を極めた場所だった。世界に発展が存在するのであれば、それはアンダルスで目の当たりにされた。最も豊かな発展と成長がその地で実現した」

フンケはまた、次のように述べています。

「コルドバには、大きな教会が存在したが、キリスト教徒はそれを補修し、宗教的な場所として利用することができなかった。こうした中、支配者だったイスラム教徒は自分たちのために町の郊外に簡素なモスクを建設した。コルドバの人口が増える中で、為政者の拠点だったこの町に金曜モスクを建設する必要が出てきた。このため、当時の為政者だったアブドルラフマーンはこの教会をキリスト教徒から買い取り、それを大きなモスクとした」

これまで、イスラム文化がヨーロッパにおいて栄えた場所はごく限られていたと語られていました。しかし、重要なのは、あらゆる繁栄を極めていたイスラムのアンダルスは、800年後、腐敗や規律のなさ、堕落した思想により、完全に滅亡した、ということです。

このヨーロッパにおけるイスラムの出現と没落は、現代のイスラム教徒にとっての多くの教訓を含んでいます。現代の優れた思想家であるモタッハリー師は、次のように述べていました。

「人類の歴史は、力を持つ支配者が、社会を支配し、そこを占有しようとして、社会の精神を腐敗させ、簡単に欲望に走らせようとしてきたことを示している。この醜い手段による教訓ある例は、スペインでイスラム教徒自身の身に起こった悲劇だ。キリスト教徒はスペインをイスラム教徒の手から解放するため、まさに同じ行動を取ってきた。このため、イスラム教徒の清らかな心や、決意や意志、勇気、信仰を失わせることに成功し、彼らを惰弱で欲望に満ちた人間へと変えた。明らかに、このような人間を打ち負かすのは、難しいことではない」

2018年07月30日17時36分
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