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    犠牲祭

今日でハッジ・メッカ巡礼の一連の儀式が終わりを告げました。                

何百万人という巡礼者が、喜びに溢れた様子で生贄を捧げる場所へとやって来て、祈祷の言葉をつぶやいています。

イスラム教徒の犠牲祭、神への服従の祝祭に際して、この時間は特別番組をお送りします。

 

預言者イブラヒームは、妻のハージャルと息子のイスマイールをメッカに留まらせた後、時折、彼らに会いに行っていました。イスマイールは日々、立派に成長していきました。そんなイスマイールを、イブラヒームは心から愛していました。ある日、イブラヒームは夢の中で、神から息子のイスマイールを生贄にするよう命じられました。

 

信じられないことでした。単なる夢だと考えました。しかし、翌日の夜にも、再び同じ神の命が繰り返されました。そしてそれは3夜続きました。イブラヒームは、これが神の命であることを知り、心の中で葛藤を続けた末に、それを実行することを決めました。彼は息子からも同意を受け、目的地に到着すると、愛する息子の首を切ろうとしました。しかし、イスマイールを生贄に捧げようとしたその瞬間、神は、“イブラヒームは試練を乗り越えた”として、イスマイールの代わりに羊を生贄にするよう、イブラヒームのもとに送りました。聖典コーランは、この出来事を、第37章アッ・サーファート章整列者、第100節から111節で次のように伝えています。

 

エ「イブラヒームは言った。『主よ、善良な子供を私に授けてください』と。我々は彼に忍耐強い息子を授けることを知らせた。その子が成長し、父とともに活動するようになったとき、イブラヒームは言った。『息子よ、あなたを生贄にする夢を見た。あなたはどう考えるか?』 イスマイールは言った。『あなたに命じられたことを行ってください。私は忍耐強い者のひとりになるでしょう』 そして、彼が神の命に従い、イスマイールを寝かせ、その額を地面につけてて[首を切ろうとしたが、切れなかった。] 我々は彼に言った。『イブラヒームよ、あなたは任務を遂行した。このようにして我々は善を行う人々に報奨を与える。これは明らかな試練であった。彼に大きな生贄を捧げ、未来の人々が彼を賞賛するようにした。イブラヒームに平安あれ。このように我々は、善を行う人々に報奨を与える。彼は我々の敬虔な僕の一人であった』」

 

イスラムの教えでは、子供を愛することは美徳の一つとされていますが、そのような愛情によって、僕としての義務を果たすことを怠ってはなりません。子供への愛情は、本能的な感情ですが、それによって宗教的な責務を怠ることは、現世への依存や執着となり、否定されています。預言者イブラヒームの物語では、彼が父親としての息子への愛を超え、僕としての責務を遂行した尊厳と服従が明らかに見られます。

 

明らかに、人間は、神への服従において多くの問題に直面し、何度も、本能を選ぶか、僕としての義務を選ぶかの岐路に立たされます。この危険な別れ道の中で、僕としての義務を選べば、清らかな人や天使たちの中に入りますが、欲望を追求すれば、多くの理解にいたることがなく、罪や堕落に陥ります。

 

このため、ハッジ・メッカ巡礼の最後の儀式を行うことは、この儀式に参加した人々にとって喜ばしいものです。その後、犠牲祭の日の礼拝が行われ、そこでは神を賞賛し、この華やかな日の善が求められます。

 

この中で、神の預言者イブラヒームの最も明らかな特徴は、悪魔のささやきに対してゆるぎない意志を持っていたことでした。息子を生贄にするよう神からの命が下ったときから、その首を切って生贄にしようとしたときまで、イブラヒームにとっては非常に大きな試練、困難でしたが、彼は多くの誘惑に打ち勝ちました。

 

預言者イブラヒームが、父親としての愛情や自分の気持ちとは異なっていたとしても、神の命を信じたことは、その行動における優れた特徴であり、だからこそ、この日とイブラヒームという預言者の名は、歴史の中で永遠に刻まれることになりました。

イランのイスラム革命の指導者であったホメイニー師は、次のように語っています。

 

「この唯一の神を信じ、偶像を破壊した父親は、私たちとすべての人間に、神の道において生贄を捧げることとは、神への崇拝という側面以上に、政治的な側面や社会的な価値もあるということを教えた。そして、自分の人生の結実である最も愛する存在を神の道において捧げるよう、私たちに教えた。大切なものと自らを捧げ、神の宗教と神の公正を実行するがよい」

 

犠牲祭は、イスラム教徒の祝日で、国によって異なりますが、1日ないし4日間、休日になります。この間、人々は、清潔な服を着て、礼拝を行った後、互いの家を訪問したりしてこの日を祝います。

 

とはいえ、犠牲祭の日の生贄を捧げる儀式は、すべての人に義務付けられているわけではありません。メッカ巡礼の儀式の中で、カアバ神殿の巡礼者だけに義務付けられています。しかし、世界中の多くのイスラム教徒が、この日、羊や牛、あるいはラクダを生贄に捧げ、その肉を近所の人や恵まれない人に分け与えます。

 

「犠牲」を意味する単語の語源は、「近いこと」ですが、それは、すべての犠牲において、神や自然を超えた力に近づくことを意味しています。犠牲や生贄を捧げることは、預言者アーダムの時代から存在し、この預言者の息子であるハービールとガービールの対立は、犠牲という問題を巡ってのものでした。神は、純粋な心からのハービールの生贄を受け入れましたが、ガービールの生贄は神から受け入れられませんでした。

 

動物を生贄に捧げることは、人間が持つ動物的なものの克服や犠牲を象徴するものです。これは、人間としての成長に達するためには、その動物的な性質を抑えるべきだということを教えています。

 

預言者イブラヒームは、この出来事において、神の御前に立つためには、自分の心を完全に清め、罪や穢れを取り払い、真理の光を目にできるようにすべきだということを示しました。神の言葉を聞くためには、欲望や利己主義と戦い、神の御前に立つふさわしさを手に入れなければなりません。犠牲祭は、このような戦いのための絶好の機会です。

 

しかし、人間は、現世への関心と依存の境がどこにあるのか、どの程度まで、神への服従、純粋な心、愛情や信仰において、自然には作り出せないものを作り出せることを示すべきなのかを確かめるべきです。そのため、神秘主義哲学者は、「神が生贄や犠牲を求めているのではなく、神を愛する人が、それを強く必要としている」と語っているのです。

 

とはいえ、人間は神に近づけば近づくほど、他人に対する愛情も高まります。神への服従は、神に愛されることを伴います。服従により、清らかな人生を整えることができます。

 

神への愛情が最優先にされるとき、他人への愛情も最高潮に達します。また、神との関係の不足に苦しむ人は、他人に愛情を注ぐこともできません。自分自身が、精神的に満たされていないため、他人を喜ばせることができないからです。このことから、犠牲祭とその儀式は、苦しみの中でも、満足感を得られるものです。人間は、このような犠牲の葛藤の中で力を手にし、心が洗われ、成長するのです。

 

犠牲祭に際し、改めて、世界のイスラム教徒にお祝いを申し上げ、今夜の番組を終えることにいたしましょう。

 

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2018年08月22日15時55分
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