9月 27, 2020 14:55 Asia/Tokyo
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シオニスト政権は、どのようにして、パレスチナの地に誕生したのでしょうか?また、パレスチナの悲劇は、どのような経緯で起こったのでしょうか?

第一次世界大戦が終わり、オスマン帝国が滅亡すると、イギリスの植民地主義者は、中東アラブ諸国のイスラム教徒の富の強奪を容易にするため、オスマン帝国の領土であったこの広大な地域を、計算しつくした区分に従って、首長国と大小の国家に分割しました。その上で、それぞれの領土において、自らの思い通りに動く人物に、イスラム共同体の運命を委ねたのでした。1918年、イギリスやフランスといった大国は、植民地主義的な目的を追求するため、西アジア地域で、帝国主義の軍隊の片腕となり、イスラム教徒の独立運動や自由主義運動に対抗するための勢力の存在を必要としていました。シオニストは、その人種差別的な思想のために、この役割を担う上で最良の資格を有していたのです。

シオニズムというイデオロギーは、第一次世界大戦の中で生まれたものではありません。その誕生は、19世紀の末にまで遡ります。1897年、スイスのバーゼルで、第一回世界シオニズム会議が開催され、シオニズムの父とされるテオドール・ヘルツェルが、オスマン帝国と協議を行うために、使節団を派遣しました。この使節団は、パレスチナ領土を購入するために、莫大な資金を提案しました。しかしながら、このときのヘルツェルの努力は実を結ばず、第一次世界大戦でのオスマン帝国の敗北が決定的になったときにはじめて、パレスチナのイスラム領土にシオニストの国家を建設するための、イギリスとフランスの共謀が始まったのです。

アレンビー将軍率いる連合軍は、エジプトからパレスチナに進軍し、オスマン帝国の軍隊が、シナイ半島で敗北を喫した後、ベイトルモガッダス・エルサレムに入りました。1918年5月26日、イギリスの代表マーク・サイクスと、フランスの代表フランソワ・ジョルジュピコによって、サイクス・ピコ協定が調印され、こうして、オスマン帝国から分離した領土が、イギリスとフランスの支配下に置かれました。この分割の中で、パレスチナのイスラム領土は、イギリスの委任統治下に置かれることになりました。もちろん、イギリスは、以前から、パレスチナに対する計画を温めており、サイクス・ピコ協定の締結前の1917年11月2日、当時のイギリスのバルフォア外相が、ユダヤ系の国際的な金融財閥・ロスチャイルド卿に送った書簡には、次のように記されていました。

「大英帝国の名のもとに、以下の決定をはっきりと通達いたします。この決定は、シオニズム国際連盟の要請に関するものであり、イギリス外務省に届けられ、それが承認されています。イギリス政府は、パレスチナにおけるユダヤ人の国民的郷土の樹立に対し、特別な好意を持っており、近い将来、この目的を実現するために、最大限の努力を行なうことを約束しています」

イギリス政府は、アメリカのシオニスト過激派と協力し、パレスチナの委任統治に関する規約をまとめ、承認を目指して国際社会に提出しました。この規約の第6条には、「イギリスの委任統治管理局は、ユダヤ民族が、パレスチナの地に移住する際の便宜を図る義務を負っている」とあります。この案が承認されたのは、パレスチナの人口の93%以上をアラブ民族が占めていた中でのことでした。さらに、委任統治政府の主要なポストのすべては、シオニストに委ねられ、こうしてパレスチナの経済は、シオニストに支配されていきました。

委任統治政府が誕生してから最初の3年間に、1万7500ヘクタールの国営農場のうち、およそ1万6000ヘクタールが、ユダヤ人に移譲されました。その結果、多数のパレスチナのアラブ人が、経済的な圧力や貧困によって難民となり、エジプト、レバノン、シリア、ヨルダンといった国々に移住しました。その一方で、シオニストの武装した組織的なテログループが、パレスチナの罪のない女性や子供を殺害し、アラブ人の住宅に火を放つなどしたため、パレスチナに住むアラブ民族の移住がさらに進みました。

この当時、シオニストのテログループは、イギリスの関係者の目の前で、武器の巨大な積荷を密輸し、武装を完了していた一方で、イスラム教徒のパレスチナ戦士は、わずかな武器を手に入れるためにすら、アラブの傀儡政権の関係者に、長期間、頼み込まなければなりませんでした。パレスチナのアラブ民族を標的にしたシオニストのテロ攻撃の拡大は、この領土の最終的な分離の土台を整えました。また、シオニストは、第二次世界大戦後、ヒトラーによるユダヤ人大量虐殺をプロパガンダに利用し、自分たちが虐げられた民族であるとするイメージを植え付けてパレスチナの地にシオニスト政権を誕生させる条件を整えたのでした。

第二次世界大戦後、国連総会で、パレスチナの分割を巡り、二度の採決が行なわれましたが、どちらも必要な票を獲得することが出来ませんでした。しかし、1946年11月26日、この案は再び、国連総会に提出され、ついに採択に至ります。かくして、シオニストによる、経済的、政治的なパレスチナの領土支配の土台がお膳立てされるに至ったのです。シオニストは、ディル・ヤシン村、カフル・カーシム村などで、パレスチナの男女や子供を殺戮し、ナーセロッディーン村では、その軍事侵略を拡大しました。

1948年5月15日、イギリス委任統治政府の代表が、パレスチナに対するイギリスの委任統治時代の終了を告げ、ハイファの港からイギリスに帰国しました。その後、予め計画されていた陰謀により、シオニストの武装勢力が、イギリスが明け渡した地位につきました。その日の未明、シオニスト政権は、正式にその存在を表明しました。この強奪政権を真っ先に正式承認したのは、アメリカと旧ソ連でした。この2大国が、シオニスト政権の正式承認において、これほど素早い対応を見せたことは、この強奪政権の設立が、これら2大国の直接・間接的な支援や土台作り抜きには実現しなかった、ということを物語っています。現在もなお、世界の大国、特にアメリカの惜しみない支援は、西アジア地域でシオニスト政権が強奪と圧制を促し続ける元凶となっています。

 

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