9月 23, 2020 23:19 Asia/Tokyo
  • イラン・イラク戦争、聖なる防衛の別の側面
    イラン・イラク戦争、聖なる防衛の別の側面

80年代の聖なる防衛、イラン・イラク戦争の時代は、つらい記憶とともに、甘美な記憶を思い起こします。80年代の聖なる防衛の時代は、侵略者である敵に対する団結の精神に満ちた日々でした。

80年代、聖なる防衛に参加した人々は、あらゆる分野で、様々な考えを持っていましたが、全ての人々の将来を決める戦争だという、ひとつの共通した考えを持っていました。このため、団結し、敵に対抗したのでした。

イラン軍や義勇軍であるバシージイスラム革命防衛隊はみな、イランから敵を追い出し、イランに居座らせないため、全力で敵に抵抗しました。

 

1980年9月、当時のイラクのサッダーム政権は、イランに対する全面的な戦争を開始しました。この時期、サッダーム政権は1週間でテヘランを制圧できると考えていました。しかしこの戦争は、どのような目的が追求され、どのようにして始まったのでしょうか。どのような勢力がサッダーム政権を支援したのでしょうか。今日、この時代をどの角度から見るべきなのでしょうか。そしてその問題や脅威は終わったのでしょうか。

聖なる防衛

 

イランに対するアメリカの敵意や陰謀は、イスラム革命の勝利の当初から始まり、次第に拡大していきました。覇権主義大国も、対立や競争を抱えつつも、共通の目的を持っていました。これらの国はイランのイスラム革命を脅威と感じていました。なぜなら、イスラム革命は、世界の大国による覇権を否定する思想により生まれたからです。このため、全ての敵はイランのイスラム革命に対抗する中で、団結し、イスラム共和制を崩壊させるために陰謀を図ったのです。覇権主義大国は、合意書のない合意の中で、イスラム革命を失敗させるため、イラクのサッダーム政権を支援し、全面的な戦争を行いました。

 

サッダーム政権がイラン・イラク戦争を開戦した理由とは、表向きには国境における対立ですが、実際は、イランを排除することで地域における大国になれるという、サッダーム政権と世界の大国との約束です。サッダーム政権が地位を求めていたことにより、この戦争は簡単に開戦されました。サッダーム・フセインの権力欲は、地域におけるおろかな考えとともに、サッダーム政権がアメリカの承認により、イランへの攻撃を始める下地を作り出しました。こうして、大国は地域的、国際的なレベルでサッダーム政権を支援するグループを作り出したのです。

 

この中で、アメリカとイラクの外交関係は1967年から断絶していたものの、サッダームに戦争開始を奨励するきっかけとして、バグダッドのアメリカの利益代表部がすぐに開設されました。アメリカの新聞ニューヨークタイムズは、イラクの進攻の5ヶ月前にあたる1980年4月、これに関するアメリカ政府の計画を段階的に明らかにし、次のように記しました。

「一部は、イラクとの戦争の予想により、イランは政策の見直しを余儀なくされると考えている」

サッダーム・フセイン

アメリカの政治学者、ブレジンスキー元国家安全保障担当大統領補佐官は、イラン・イラク戦争の開戦に際して、繰り返し秘密裏のイラク訪問を行い、1980年6月、サッダーム・フセインと会談した後、テレビのインタビューで次のように語りました。

「アメリカとイラクの間に顕著な対立は見られない。我々はイラクが独立した決定権を持ち、ペルシャ湾の安全を望んでいると考えており、アメリカとイラクの関係が弱まるとは考えていない」

 

ブレジンスキー元補佐官はまた、自著の中で、イスラム革命とそのアメリカに対する影響について、次のように記しています。

「イランの戦略的な地位は、アメリカが軍事的な行動をとって、イランを失うことを阻止しようとしたほど、西側にとって重要だ」

ブレジンスキー元補佐官

 

アメリカのバージニア大学のジェイムズ・ビル政治学教授は、イランイラク戦争の勃発は、ペルシャ湾における優位性と支配の確立に向けた政治的な闘争が理由だとしています。アメリカのニクソン元大統領も、イランイラク戦争に関して、この論を提示しています。ニクソンは、1970年代のアメリカの戦略は、イランに依存して、急進的なイラクをけん制することだったが、1980年代、アメリカはイスラム革命をけん制するためにイラクに頼り、イラン・イラク戦争を企画し、この目的で戦争を始めたと語っています。

 

これらの見解を総合すると、サッダーム・フセインが個人的な特性と地政学的な事柄に注目し、パフラヴィー朝の王政が打倒され、新たな流れが生じたことによる、力の空白を、優位性を示すことで埋めようとしていたことがわかります。このサッダームの夢は、実際、地域に軍事的なバランスを作り出すという考えに基づいていました。今日も、地域の現状を見ると、イランとサウジアラビアの争いがこれに一致します。

 

イスラム革命勝利以前のバランスは、表面的にはイランが有利でしたが、一方で、アメリカの地域における利益を守る憲兵の役割を果たしていました。これはイラクやサウジアラビアにとって、耐え難いものでした。つまり、アメリカは、サッダーム政権が、イランのイスラム体制を転覆させることで、イランの代わりとしての役割を地域で果たせるという結果を想定すべきだと考えていたのです。

 

戦争の結果に関する予想は、サッダームにとって大変魅力的で、イランの敵にとっても、より希望的なものでした。一部の予想では、1週間もたたずにイスラム共和制は転覆するとされていました。また、どの大国もイスラム共和制を支持しないということも、この予想を裏付けるものでした。しかし、このとおり、これらの予想は外れました。

 

ある見解からは、おそらく、イラン・イラク戦争はイランとイラクがイスラム革命以前から抱えていた一連の問題や競争が噴出したものだといえます。アメリカ国防総省の軍事問題専門家を務める同国の戦略研究所の関係者は、次のように語っています。

 

「イラン・イラク戦争は、アラブ人と非アラブ人の2つの文化の間の長い歴史的な対立や、両国の指導者の世界観や人格の違い、またアルヴァンド水路の管轄権や、国境における重要な防衛拠点をめぐる対立など、いくつかの歴史的、文化的、軍事的要因により勃発した戦争だった」

 

この関係者は、両国の国境の対立とともに、イランとイラクの互いに対する思惑に触れ、次のように記しています。「イラクはペルシャ湾の覇権と、イランとの当時の緊張を終結させるため、武力行使を行う必要があると考えていた」

 

おそらく、イラクの政権は、イランで革命が勃発したことで、イラン南部のアラブ系の人々が動き、南東部のバルーチ系の人々や西部のコルデスターンの人々が蜂起し、最終的にイランのイスラム体制が転覆するのに必要な下地が整ったと考えていたのでしょう。しかしこの推測は、サッダームの心にかなったものではなかったのです。サッダームが、イラン・イラク戦争の勃発から8年たち、安保理決議598が実施された後、クウェート侵攻前にイランに宛てて記した書簡は、サッダームが別の目的を求めていたことを証明しています。

 

サッダームは当時のイランのラフサンジャーニー大統領に対して、イランとイラクの間で締結された合意は全て守られているとしました。また、1990年8月14日に、サッダームがイランの政府関係者に宛てた最後の書簡では、イラン・イラク戦争における戦争犯罪については触れず、占領地からのイラク軍の撤退と、イラン人捕虜の解放など、両国の平和協定の締結に向けたイランの条件は、全て受諾されたとしました。

 

この書簡は、イラン・イラク戦争という計画が、世界の大国による、輸送、資金、政治の各方面の支援、そしてイランに対抗する地域の連合にもかかわらず、失敗し、西側の計画者や有識者、戦略研究家の予測に反して、戦争はイラン国民をより有能な、またより抵抗する存在へと変えたことを示しているのです。

 

このため、イラン・イラク戦争の終結により、アメリカの対イラン政策は変更し、直接的な対立する政策は、数カ国によってイランをけん制する戦略に変わりました。この対立は、予想しなかったものではありませんでした。なぜなら、革命の勝利によって築かれたイスラム共和制は、アメリカなどの覇権主義体制の実際の姿を明らかにしたからです。この出来事は、抑圧された人々の、世界の支配体制に対する見解において、重要な転換点となりました。

 

イランの人々にとって、聖なる防衛の時代は、単に精神的な献身の価値を思い起こす時代ではなく、今日、そして後の世代にも継承される価値ある経験でもあったのです。このため、イラン・イラク戦争の聖なる防衛の時代は、ほかの角度からも見られるべきなのです。

聖なる防衛

 

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