1月 11, 2020 14:14 Asia/Tokyo
  • モハンマド・ナジーリー・ネイシャーブーリーの詩集
    モハンマド・ナジーリー・ネイシャーブーリーの詩集

今回は新たなイランの名声となった人物を紹介しましょう。今回紹介するのは16~17世紀に活躍した詩人、モハンマド・ナジーリー・ネイシャーブーリーです。

ナジーリーは歴史的なスタイルによる詩を記し、現代詩においても深い影響を与えています。また、当時、人々が日常的に口にする言葉を使い、最も一般の人々に近かった詩人とされています。

ペルシャ語詩の歴史の中には、同等の価値を持つ詩人たちが数多く存在しています。多くの詩人や思想家が出現し、創作活動を行い、この世から去っていきましたが、こうした中で、数名の詩人は人々の記憶に残り、次世代に伝えられていく中で、一部の名前はさらに知られ、一部は忘れ去られたりしました。

イランという広大な地域には、時代を作り上げた思想家たちが存在します。アブーレイハーン・ビールーニー、イブン・スィーナー、ハーラズミー、サアディー、モウラヴィー、ラーズィー、ファーラービー、ハーフェズ、ハイヤームなどがそういった人物に当たり、そういった人物が多かったことから、一部の人はこのような偉人の陰に隠れてしまっています。ナジーリー・ネイシャーブーリーも、そういった人物の一人で、専門家は、ペルシャ語詩における預言者だとしています。

ムハンマド・ホセイン・ナジーリーは、16世紀の半ば、イラン北東部のネイシャーブールにて生まれました。彼はこの町で、詩と文学の初歩を学びました。彼は商人の家に生まれ、もともと家族と共に商業を生業としていましたが、大変若い頃から詩を作り始め、若くしてイラン北東部からの一帯のホラーサーンの人々の間で、詩人として知られるようになり、訪れたところすべてにおいて、彼の名声は響き渡りました。

ナジーリーは詩の技術を教わるため、イラン中部の町カーシャーンに赴きました。カーシャーンは当時、イスファハーン、ガズヴィーンとともに、ペルシャ語詩における3つの中心地で、詩人が集まっていました。ナジーリーはカーシャーンで詩人の会に参加しました。誰も、ナジーリーのように、繊細で誠実な詩を作ることはできず、多くの人が彼の叙情詩の句を語っていました。

ナジーリーは大変若い頃にイラクに行き、当時の詩人たちと交流し、次第にその名声を高めていきました。大きな名声を得ていた彼は、何の懸念もなく芸術活動と共に生活を行えるよう、旅をしました。そして、インドに渡りました。

15世紀、当時イランの東部とされていた、現在のアフガニスタンのヘラートはティムール朝が、そして西のタブリーズは白羊朝がそれぞれ支配しており、この中で、イランの詩や音楽、建築、文学、芸術のルネッサンスが開花していました。白羊朝の慣習はサファヴィー朝に持ち込まれ、ヘラートのティムール朝のルネッサンスは、ヘラートの宮廷の没落により、インドのムガル朝に移転され、ムガル朝の王たちはこれによって名声を得ました。ムガル朝の一族は、インドにおいてイランの文学や芸術の楽園を生み出しました。

インドのムガル朝の一族は、莫大な出費により、イランの詩や散文、音楽、建築、官僚などを、取り入れました。ムガル朝の一族の宮廷だけでなく、サファヴィー朝の王の宮廷と比べても見劣りしない、インドの地方長官の宮廷においても、あらゆるイラン的なものが集まっていました。当時、二流、三流の詩人であっても、インドに行き、詩人に与えられる莫大な富を手に入れることを考えていました。このため、ナジーリーも決意を固め、カーシャーンからインドに行きました。

 

世界遺産タージマハルを擁するインド北部のアグラの町は、ナジーリーがインドに渡った当時、ムガル朝の王都で、グジャラートから地方の為政者は、ムガル朝との取り決めを更新するため、軍を引き連れ、この地に滞在していました。ナジーリーはインドで当時のグジャラートの為政者、アブドルラヒーム・ハーンに、自分の詩を送る機会を得て、文学を愛するアブドルラヒーム・ハーンとの交流関係が始まりました。

明らかに、この会合は若いナジーリーにとって、非常に重要な出来事でした。若いナジーリーは頌詩をよみ、アブドルラヒーム・ハーンを賞賛しました。表向きには、これは1584年のこととされています。ナジーリーの頌詩は、アブドルラヒーム・ハーンの目に止まり、彼を側近として呼び寄せました。このような機会を待っていたナジーリーは、嬉々としてこの要請を受け入れました。

「ハーネ・ハーナーン」、つまり貴族の中の貴族と呼ばれていたアブドルラヒーム・ハーンは、寛大で文学を愛する人物で、イランの詩人や芸術家を愛しており、彼らを奨励していました。彼はムガル朝の3代皇帝アクバルの軍の長官をつとめており、戦争では、その勇敢さを大いに示していました。彼について、グジャラートの戦争で5万人の軍勢を5千人で打ち負かしたという記録があります。

デカン高原の行政長官だったアブドルラヒーム・ハーンは、多くの文学者の庇護者となっていました。ナジーリーやオルフィー・シーラーズィーといった偉大な詩人も、彼の側近として仕えていました。この状況は、アブドルラヒーム・ハーンの死後も続いていました。19世紀のインドの文学者、シェブリー・ノオマーニーは、インドにおけるイランの文学と芸術が頂点に達したのは、アブドルラヒーム・ハーンの支援によるところが大きいとしています。

 

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