2月 18, 2020 14:48 Asia/Tokyo
  • アブーターレブ・キャリーム・カーシャーニー
    アブーターレブ・キャリーム・カーシャーニー

今回は、サファヴィー朝時代の優れた詩人、アブーターレブ・キャリーム・カーシャーニーについてお話しましょう

キャリームはインド様式の詩における第一人者とされています。

世界各国の文学は社会的、政治的、文化的な状況により、変化を遂げています。各社会の社会的な需要により、詩人や文学者は、そうした変化を示すために、過去の言葉を越えた表現を用いています。

先人の形式から離れた結果、新たな文学的な言葉が現れ、その専門用語や単語は、特性を持つようになります。ペルシャ語文学も、ある特定の時期を経ています。イランの文学史全体において、ホラーサーン様式から、現代詩人ニーマー・ユーシジの形式までの、思想を伝える様々な形式が生まれています。

あらゆる形式の変化や紆余曲折から、特定の様式がはやっていたある時代の政治、社会、文化の問題を検討し、その様式が現れ、頂点に達し、衰退する兆候に目を向けることができます。インド様式も、ペルシャ語詩の様式のひとつであり、特定の状況下で生まれ、一時期において流行していました。ペルシャ語詩の偉大な詩人はこの形式で詩を詠み、後の世代に作品を残しました。この偉大な詩人の一人がキャリームです。彼はサファヴィー朝の王アッバース1世の時代の詩人であり、またインド・ムガル朝の王シャー・ジャハーンの宮廷における「詩人たちの王」だったのです。
キャリーム・カーシャーニー

キャリームの存命中も、死後においても、彼の驚くべき名声により、キャリームの伝記は忘れ去られることなく伝えられています。しかしキャリームの名前が記されている覚書では、彼の名声により、その生涯の詳細な情報については記されていません。近代イランの詩人のパルトー・ビーザーイーによれば、

「キャリームの伝記は彼の作品の中に隠れてしまい、次第にその主要な部分は未知のものとなり、覚書の中の内容も大変少なく、それぞれ似通っている。たとえば、300年前から現在まで、ペルシャ語によるいずれの文学作品にも、彼の名前は必ず載っているが、彼がどこで生まれたか、子を残したかなどは、確実に明らかではない。キャリームは詩の中でも、個人的な生活についてまったく語っていない。もし誰かが彼について書いていても、道徳的なすばらしさ以外語っていない。」

ということです。

キャリームが生まれた年や日時については、よくわかっていません。一説によると、彼は1572年ごろに生まれているということです。覚書を書いた人物も彼の生まれた場所について、疑念を抱いています。一部はイラン西部ハメダーンで生まれたとしており、一部はイラン中部カーシャーンで生まれたとしています。パルトー・ビーザーイーは、この議論は当時においても提起されており、彼自身もどこで生まれたのか知らないと主張していたとしています。

18世紀の詩人、ロトフアリー・ベクアーザルは、覚書の中で、キャリームをカーシャーンの人としており、彼の詩集からその見解が証明されているとしています。しかし、キャリームがどこの町で生まれ、勉学を修めたかについては重要ではなく、重要なのは、彼がイラン人だったことです。おそらく彼も、イラン人であることを重視し、どこの出身かについてはこだわらなかったのです。

キャリームの子供時代についても、何も知られていません。しかし、彼はやせていて、托鉢僧のような生活を営んでいたといわれています。覚書などでは、彼の性格や振る舞いが賞賛されており、彼は詩人として、真理の道を歩んだ多くの神秘主義者たちのように、結婚せずに生きました。

キャリームは学問を、ハメダーンとイラン南部シーラーズで、当時の学問の大家の下で修めました。学問を修めてから数年後、ムガル帝国の4代目の皇帝ジャハーンギールの治世にインドに行きました。このとき、彼は24歳を超えてなかったとされます。キャリームはこの旅の中では、文学において、知識ある文学者が数多く仕えていたジャハーンギールの宮廷に出仕できるほどの人物ではなかったのです。

キャリームは一時期、デカン高原などのインドの地にすみ、1628年ごろにイランに戻りました。彼は一時期イランに滞在していたものの、2年後の1630年ごろには再びインドに赴きました。

およそ7年間にわたり、キャリームはインドで生活しましたが、1627年にジャハーンギールが死去し、5代目皇帝のシャー・ジャハーンが即位しました。この時代、キャリームは四行詩により、インドの宮廷に出仕するようになりました。彼は友人で詩人のミール・ジュムラ・シャフレスターニーの支援により、シャージャハーンの宮廷でマレコッショアラー、つまり「詩人の王」という地位を得て、毎年宮廷から金(きん)などが与えられていましたが、彼はそれを貧しい人々に分けていました。

キャリームは抒情詩や頌詩、マスナヴィー形式、四行詩など様々な詩を残しています。彼の詩集の対句の数は1万以下となっています。そのほかの彼が後世に残した作品は、マスナヴィー形式の『王書』などがあります。

インドの、特に北部のアグラの歴史的建造物を訪れば、そこにキャリームの詩が記されているのを見ることができます。たとえば、アグラ城塞に記された頌詩を挙げることができます。

キャリームは1651年ごろ、インド北部のカシミール地方で土砂崩れに遭って死去し、そこに埋葬されました。彼の廟はスリナガルにあり、カシミールの廟として知られています。現在、彼の廟の周辺の人々に尋ねてみても、彼の名前を知る人はおらず、彼の70年の有能で簡素な生涯は、その素朴な地に埋没しているのです。

 

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