6月 15, 2020 12:05 Asia/Tokyo
  • ムハンマド・ビン・ジャリール・タバリー
    ムハンマド・ビン・ジャリール・タバリー

今回も、9世紀に生きていたイランの偉大な哲学者で、歴史家でもあったモハンマド・ブン・ジャリール・タバリーについてお話しすることにいたしましょう。

前回は、イランが誇る哲学者で歴史家、そしてコーラン解釈者でもあったモハンマド・ブン・ジャリール・タバリーが、9世紀に現在のイラン北部の町アーモルにて生誕したことについてお話しました。彼は、知性に恵まれていたことから、アーモルにて様々な学問を驚くべき速さで習得し、12歳からは父親の勧めにより、さらに勉学に励むために故郷を離れました。

タバリーが、哲学者やイスラム法学者、伝承学者といった巨匠たちに師事し、学問を積むために、一定期間滞在した町には、現在のテヘラン南部の町・レイ、イラクのバグダッド、シリア、そしてエジプトなどが挙げられます。最終的に、タバリーはバグダッドを終の棲家とし、この地に骨を埋めました。

タバリーはバグダッドにおいて、イスラム法学や歴史、伝承学の分野の知識を完成させると共に、門下生を育成し、歴史やコーラン解釈を初めとする価値ある著作の編纂に当たりました。彼は、西暦921年2月21日、バグダッドにて一生を終え、その翌日の夜、自らの住んでいた家に埋葬されています。

イランが誇るタバリーの著作の1つに、「神の使途たちと諸王の歴史」があります。この著作は、その後彼が書物を著す際の重要な参考文献となり、また内容が詳しく、その独特の様式や古さなどから、他に例のない有効な書物とされています。

イスラム的な年代記の執筆の形式においては、2つの方法が特に注目されています。1つは、出来事の内容にそって執筆を進める方法であり、もう1つは年代ごとに出来事を書き綴る編年体に近い方式です。イスラム的な歴史書の執筆方式が出現した当初は、この2つの方式が主流でした。

伝統や伝承学ハディースをより所とし、写実主義者として知られる人々の間では、歴史は仮説を提唱する際に自らの宗教的な使命を放棄してはならず、常に有用な学問としてコーラン解釈学や伝承学を助けるものであるべきだと考えられていました。

また、一部の人々は、歴史は連綿とした経験の連なりであり、未来の世代にとって有益なものであるべきで、物質科学の一部、そして考えることや実際の行動のための手段として活用されるべきだと考えていました。当時の社会でも決して少なくなかったあらゆるグループの支持者や、イスラム教徒の考え方や意識の状況に注目し、タバリーはその後の歴史家の多くにとっての模範となる独自の方式をより所とし、歴史書の編纂という一大事業に着手したのです。

タバリーは、歴史書の編纂のために、自らと同時代の人々の著作ではなく、今から1200年ほど前の文献を活用しました。かつて、テヘランのタルビヤト・モダッレス大学などで教鞭をとったイランの歴史学者サーデグ・アーイェネヴァンド博士は、次のように述べています。

「タバリーが活用した史料文献の多くは、イラクのものである。それは、この偉大な歴史家が人生の多くをイラクで過ごしたためである。さらに、イラクの町バグダッドは、色々な出来事が起こっていたことから、イスラム世界において重要な役割を果たしており、特にウマイヤ朝時代は、反乱や闘争の中心地であった」

アーイェネヴァンド博士は、タバリーがこれらの史料文献や他の人々が語る内容を収集、分類し、そして時にはそれらの中から一部を選んでいたと考えています。

タバリーの歴史書はそもそも、歴史的な出来事の記録に関するものですが、これを紐解くと、実に豊かな文学的要素がちりばめられていることが分かります。彼は、精錬され、しっかりとした文体により、様々な出来事をこれ以上ないほどきちんとした文章におさめています。

タバリーは、創造のはじめから自身が生きた時代までの歴史を執筆するに当たり、数多くの人々が書き残したものを活用しました。もっとも、彼が参考文献として利用したものの一部は、現代の研究者の見解や、彼らの研究調査によれば、当然ながらそれほど信頼できるものではありませんでした。一部の人々の間では、タバリーは、読書を愛好する人々の情報や、イスラム離れした様相を彼らから受容しており、このことによりタバリーの著作の信憑性がいささか毀損されている、と考えられています。

これらのごくわずかの人々はともかく、タバリーの著作に活用されている、信頼するに足る人物の著作の数は決して少なくない、ということに留意する必要があります。そして、このことにより彼の著作は、歴史書の中で最も標準的で有効性が高いとされています。

タバリーの歴史書における重要なポイントは、彼がウマイヤ朝の視点による偏った見解から完全に乖離していることにあります。彼は、9世紀の後半にタバリーの歴史書を執筆しており、歴史家の見解では当時、ウマイヤ朝政権内において緊張が高まっていた時代だとされています。タバリーは、イスラム法学者、有識者として、当時の支配政権に迎合したイスラム法学の潮流や宗派から完全に独立していました。このため、あらゆる歴史家にとって支障となる過激な思想や、偏った好ましくない考え方の影響を受けることはなかったのです。

タバリーの歴史書は、世界の歴史の部とイスラム世界の歴史の部に大きく分けられます。全部で13巻本となっているこの歴史書のうち、2巻は世界の歴史に関するもので、天地創造から始まり、預言者アーダムとハワーの降臨、そして、カインとアベルの物語が述べられ、そして預言者ヌーフから最後の預言者ムハンマドまでが綴られています。

これらのテーマに続いて、タバリーはイスラム共同体の歴史について語り、そして伝説の王マヌーチェフルからホスロー・パルヴィーズに至るまでの、イランの歴史について述べています。それから、サーサーン朝軍とアラブ軍によるズィガールの戦いそしてサーサーン朝の王ヤズデギルドについて述べ、さらにイスラエルの民、ローマ帝国の王たちとキリスト教の始まりへと続きます。そして、神によって滅ぼされたとされるアード族トサムード族などの話、イエメンの王たち、アラブ族の一部の著名人に関する記述が出てきます。

そして、最後の部分においても、預言者の時代の出来事として、イスラムの預言者ムハンマドの先祖に関する話が出てきます。この部分は、年代順には記されておらず、タバリーは歴史的な重要性に注目した上で内容を語っていますが、年代的に優先すべき事柄を尊重しています。

タバリーは、天地創造と預言者アーダムの子孫が世界各地に分散したことについて、預言者ムハンマドの伝承をもとに、それを検証するためにコーランの節を引用し、説明しています。また、このテーマについては他のどのテーマにおいてよりも、自らの見解を強調しています。

また、天地創造やイスラエルの民の預言者たちの歴史についても、コーランの節やイスラムの先人たちの語った内容を出しながら説明しています。この部分を占めるのは、宗教的な内容のみであり、キユーマルス王を最初の人類だとする、天地創造に関するイラン人の信条について述べています。

タバリーは、自らの歴史書のほかの部分においても、世界の諸民族のうちイランの歴代の王たちの歴史のみについて語っている理由を述べています。彼は、そのほかの諸民族が、自分たちの歴史の基盤となる、連綿とした明確な王朝時代の歴史を有していないことを挙げています。一方、イランの歴史を語る際には、タバリーの個人的な見解に加えて、イランの歴史とイスラムの歴史の結びつきに注目する必要があります。タバリーは、イランの歴史について語る部分では、その典拠について述べず、ペルシア人の有識者、あるいは学者とするのみに留まっています。

タバリーは、イエメンの歴史やその王たちの物語、そしてサーサーン朝のホスロー・パルヴィーズの時代における統治体制の堕落の兆候とその影響に関する、宗教的な説明においても、イスラムの様々な伝承を活用しています。しかし、イスラム軍の征服とサーサーン朝の王たちの最後については、その限りではありません。それは、イスラム軍の勝利に関する伝承の典拠が多岐にわたり、そのためにその多くは矛盾した見解や学説が含まれていることによるものです。

 

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