May 24, 2016 21:07 Asia/Tokyo
  • イランの陶芸
    イランの陶芸

これまでの番組では、陶器は人間の手で作られた最も恒久的で、数の多い考古学的発見の一つであることをお話しました。

考古学的な観点から、陶器は他に写しが存在しない書籍と同じです。各民族の陶器の文化を探ることで、それぞれの文化の一部を知ることができます。

 

陶器の長い歴史において、人間は陶器製造のみに留まらず、様々な方法で、それらをより美しいものにしていました。彫刻された模様や陶器の色付けのための自然に存在する色彩の使用は、陶器が歴史の中で身につけた美しさの一部でした。この模様は実際、一種のメッセージであり、思想の移転でもあり、人間がその周りの環境の中で注目を寄せている多くのテーマを含むものです。

 

多くの願望、ニーズ、信条、伝統、宗教、歴史、芸術、芸術家の関係や思考は、あらゆる歴史時代において陶器に模様として描かれ、あらゆる時代の芸術家たちが自分や社会が注目する環境や品々、模様を陶器の上に表していました。それゆえ、今日、私たちはこれらの模様について調べることで、先人たちの多くの思想や彼らの文化において注目されている事柄について知ることができます。

 

イスラム時代の文化遺産は、この時代が最も輝かしい芸術の時代であり、その中で芸術家たちがその思考や信条を芸術作品を通じて移転していったことを示しています。イラン各地から見つかった陶器は、イランのイスラム教徒の芸術家がイスラムの信条と、さらには陶器芸術の豊かな経験を用いることで、陶器を製造し、優れた作品を残しているという重要な点を表しています。

 

イランでは11世紀初頭にセルジューク朝が成立し、200年近く統治しました。マレクシャーなど、この王朝の為政者の時代には、建築や金属工芸、織物、レンガ細工、漆喰細工、その他の芸術が繁栄し、陶器も目覚しい発展を遂げました。セルジューク朝時代には、陶器を作るために白い練り粉が用いられていました。この練り粉は中国で陶器を作る際に使用されていたものに似ていました。この練り粉から作られた陶器は非常に薄く、アルカリ性の上薬がかけられており、半透明の色となっていました。

 

セルジューク朝時代の陶器は、釉薬のかけられていないもの、いるもの、単色のもの、瑠璃色のもの、金色のもの、釉薬の下に模様を伴ったもの、白色のもの、かたどった模様を持つものなどがありました。これらの器は様々な形のものが作られており、装飾の点でそれぞれが特徴を持っていました。

イランの陶芸

 

セルジューク朝時代の陶器職人たちは、幾何学模様、クーフィック体の文字、鳥獣模様、らせん状の線、唐草模様、人間の姿を陶器に描いていました。また青、黒、黄、茶、瑠璃、緑、白、空色などが陶器の装飾に用いられていました。考古学的な調査によれば、ソルターンアーバード(現在のアラーク)、レイ、カーシャーン、サーヴェ、ゴルガーン、ネイシャーブール、シューシュ、ブハラ、イスファハン、サマルカンドといった都市が、イランのセルジューク朝時代の陶器製造の重要な中心地でした。

 

ハーラズムシャー朝時代も、芸術の発展と製造方法において、一部の点からセルジューク朝時代と似ていました。考古学的調査によれば、金色のもの、釉薬の下に模様が書かれたもの、あるいは模様が彫られた七色のもの、あるいは単色のもの、また釉薬のかけられていないものなど様々な種類の陶器が作られていました。

 

この時代のものとして知られた最も見ごたえのある陶器、つまり黄金の陶器はカーシャーンで見つかりました。絵つきの黄金の陶器はデザインと色、技術的な熟練度の点で非常に優れたもので、他の地域の陶器職人が模倣するようなものとなっていました。これらの作品の中で、絵つきの黄金のおわんがあり、ニューヨークのメトロポリタンミュージーアムに収蔵されています。このおわんの上には複数の竜の絵が描かれており、その中央にはぶっしゅかんが、さらには魚のいる川のそばで草を食むカモシカの姿が描かれています。

 

カーシャーンの黒と青の陶器は、この町特有のものと見なされており、その代表に、多くの隆起物を伴うおわんがあり、比較的高い台座の上に置かれています。それらの上には抽象的で優美な植物の模様が描かれており、一部の作品に施されている青と白の縞模様はカーシャーンの陶器職人の秩序と正確さを示すものです。

イランの陶芸

 

アメリカのイラン学者のリチャード・エッティンハウゼンは、「12世紀から13世紀当時、美しい器を作るために用いられていた型はその当時の陶器職人の間で一致していたことを物語っている」と述べています。彼は様々な場所で手に入った、共通の型や模様、さらには類似性を持っている数々の作品を挙げています。

 

1221年、モンゴル人の襲撃により、政治的、芸術的な町の多くが破壊されました。このため陶器工房は滅び、カーシャーンに陶器芸術が維持される程度のわずかな工房が残るのみとなりました。しかしながらこの状況は長くは続かず、次第にモンゴルの支配者たちがイランの文化や文明、芸術の影響を受け、イスラム教に入信すると、様々な分野で芸術家たちが支持されました。

 

この時代の芸術と建築活動の見直しは、だいたいイルハン朝の創設と共に、フラグハンによって開始され、マラーゲ、タブリーズ、ソルターニーエは芸術家が集まる町となっていました。14世紀初頭、イランの学者ハージェ・ラシードッディーン・ファズロッラーが、芸術・文学作品の創造において大きな変化を生じさせました。こうして陶器製造は各地で始まり、その中で、アーザルバイジャーンのタフテソレイマーン、ケルマーン、ワラーミーン、レイ、ソルターンアーバード、ゴルガーンの名を挙げることができます。

 

イルハン朝時代の陶器は、単色、金色、瑠璃色、釉薬のかかったもの、彫刻された模様のついたものが作られていました。これらの陶器の多くは唐草、人間、鳥獣、幾何学の模様による非常に美しい装飾が施されており、お椀、皿、杯、大きなかめなどが作られていました。

イランの陶芸

 

ティムール朝は14世紀から15世紀に、アジアの広大な地域を支配していました。この王朝は政治の中心をサマルカンドに移転しましたが、ティムールとその後継者はイルハーン朝の人々と同じようにしばらく後にイランの文化や文明の影響を受け、様々な芸術を繁栄させました。著名な芸術家たちがイランからサマルカンドに呼び寄せられ、役所や宗教的な建物の建設、芸術作品の製造に尽力しました。

 

ティムール朝時代、コーバーチェと呼ばれる陶器の製造が広まりました。この陶器の飾りには、幾何学、草花模様があり、その下には半透明の青色の上薬が使用されていました。こ装飾方法においては単色の上薬の地に黒や緑の模様が描かれており、17世紀以降はその模様の中に様々な色が使われ、人間の姿が描かれていました。また別の種類の陶器も作られており、それは白い地に青い色で装飾が施されており、おそらく中国から入ってきた白と青の有名な陶磁器の影響を受けて作られていたと見られています。

 

 

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